UA-79192611-1 往時の天守を正確に復元した伊予の大洲城

往時の天守を正確に復元した伊予の大洲城

四国は愛媛県にある大洲城(おおずじょう)は梯郭式平山城であり、別名として地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城などと呼ばれています。

大洲市民会館駐車場に車を止め、市民会館側にある櫓下御門跡を越えると、復元土塀の向こうにそびえる石垣と天守が見えます。
天守は平成の復元ですが、天守の手前側に見える高欄櫓と右側にちょっとだけ見える台所櫓は江戸時代からの現存だそうです。

天守の手前に見えるのが天守から続く高欄櫓。

奥御殿跡を過ぎると目の前には立派な石垣がそびえ立っています。

復元された土塀はあまりにも新し過ぎて興ざめしてしまいますね。

残念な土塀と対比してこの苔むした石垣が何とも言えない味を醸し出しています。

このあたりが西二の丸、先の方に見えるのが北の丸
右側に進むと本丸です。

西二の丸から見上げると立派な天守がそこにあります。

石垣にそびえたつ天守です。

本丸下段である井戸丸から天守を見上げます。

石垣が下のほうは古そうですが上の部分は新しいのはなぜでしょう?
天守復元の際に石垣の修復工事もあったそうなのでもしかしたら上の部分はその時の追加分?

右側に天守から続く高欄櫓。

いよいよ本丸上段。天守のある部分です。
暗り門跡
天守に到る最後の城門で場内で最も大きい櫓門があったそうです。
これはその門を通り過ぎ本丸上段からの撮影です。

説明文によると
門の正面には石垣があって、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。
通常の櫓門とは異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、中が暗がりになって、突き進んできた敵兵の勢いをそぎ、暗がりの中で混乱しているところを攻撃する仕掛けになっていたそうです。

その跡だけ見てもイメージが湧かないのが残念。

道の下からはその石垣・石段・側溝が発掘されたが、そのまま埋め戻したとのことなので、さらに残念。

証拠写真用に絶好の位置に看板があります。
背景は天守と台所櫓。

台所櫓
大洲城の数多くの櫓の中でも最大級のこの櫓は、その名のとおり内部に台所を思わせる土間があり、煙出し用の格子窓が開けられている。とのこと。

台所櫓の前から見上げる天守。

高欄櫓
大洲城の中で唯一、2階に縁と高欄のある櫓で、ここからは城内が一望出来ます。
とのこと。

天守側から見た台所櫓

天守とそれに続く二つの櫓は中で自由に行き来出来るとのことですが
残念ながら17:00で終了していたため中には入城不可でした。
なので中の様子はすべて大洲城の説明文によるものです。

本丸最上段の東端から天守方向を見た写真。

本丸最上段の天守側から東方向を見た写真。

今は何もありませんが、本来、本丸は天守や台所櫓、高欄櫓などの主要な建物を多聞櫓でつないでおり、本丸最上部全体が櫓で囲われていたそうです。

本丸から北側を見た景色です。

目の前に見えるのは肱川といい、
築城の際に、川に面した高石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となり、「おひじ」という若い女性が生き埋めにされ人柱となったそうです。
その後、工事は無事完了し、おひじの最期の願いにより、大洲城下に流れる川を肱川と名付けたそうです。

あくまでも伝説だとは思いますが。

本丸から東側を見た景色です。

肱川が東側から流れてきて、前の写真のように北側に流れています。
東側の渓谷から流れてきて、大洲盆地手前で北に折れ、さらに西に折れてから大洲盆地を分断し、屈曲して北側の渓谷を通って瀬戸内海に流れ込んでいるんです。

南は山、北西も山、素晴らしい天然の要害ですね。

この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期の守護、宇都宮豊房であるといわれ、その後、藤堂高虎によって大規模な修築がなされたそうです。

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ひとやすみレクタングル大18.02.19
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