UA-79192611-1 戦国時代に越前を支配した朝倉氏の一乗谷朝倉氏遺跡

戦国時代に越前を支配した朝倉氏の一乗谷朝倉氏遺跡

福井県にある一乗谷朝倉氏遺跡。
戦国時代に越前を支配し全国的にも有力な戦国大名だった朝倉氏の拠点だった所。
越前朝倉氏は織田信長によって滅亡されるまで11代続いたそうです。

北陸道福井ICより10分程度で到着。
駐車場は十分に広いです(無料)。

公共交通機関での場合は福井駅から京福バスにて約27分で朝倉館前下車。
でも一日に6便程度なので事前に時刻表確認が必要でしょう。

諏訪館跡、英林塚、湯殿跡、中の御殿跡

主要な建物および城下町は山に囲まれた細長い谷あいにあった。
ここが主要部の全景。

諏訪館跡

まずは上流側の諏訪館跡から行ってみます。
駐車場前のすわやかたばしを渡り坂道を登りさらに階段を上がっていきます。

義景の夫人の屋敷跡。
ここにある庭園は一乗谷で最も規模が大きかったそうです。
この諏訪館跡庭園は国の特別名勝になっています。
ちなみにこの遺跡一帯にはここを含め4つの庭園が特別名勝になっているそうです。

これがその庭園跡。
当時の技術からするとこんな大きな石を積み上げるのは並大抵のことではなかったはずです。
当時を知るうえで貴重な史跡ではないでしょうか。
特別名勝というとちょっとピンときませんが。

諏訪館跡を後にしてさらに山側に登っていきます。

英林塚

坂道を登りさらに階段を上がっていくと英林塚。

初代孝景の墓があります。
法名が英林孝景だったのでその墓があるところだから英林塚。
実際は越前朝倉氏の7代目のはずですが越前守護に任ぜられて一乗谷に拠った孝景を初代としているのでしょう。
重要な遺跡なので保存のためコンクリートの建物で覆ってあるのでしょうがやはり見る方としてはちょっと興醒めですね。

平坦な部分がかなりありますので塚としての役割以外になにかがあったのではないでしょうか。

英林塚より山沿いの道を南陽寺方面へ向かいます。

途中でまっすぐ行けば南陽寺、左へ下れば館跡の標識があったので南陽寺へは行かずに下ります。
南陽寺跡にも特別名勝の庭園があるそうですが結局は見には行けませんでした。

湯殿跡

朝倉義景館跡まで下る手前にあったのが湯殿跡。
一乗谷で最も古い4代(越前朝倉氏10代目当主)孝景の頃の庭園があるそうです。

かなりたくさんの石を持ってきて石組された跡が残っています。
一乗谷で最も古い庭園だそうです。
これも国の特別名勝に指定されています。
でも豪華な庭園のイメージは湧いてこない。

中の御殿跡

その先には中の御殿跡が見えています。

湯殿跡から中の御殿跡へ渡る橋が架かっています。
結構新しくて頑丈そうな造りですが当時はもっと貧弱な橋が架けられていたんでしょう。

湯殿跡と中の御殿跡の間には空堀があり下にある朝倉義景館跡の堀までつながっています。
いざという時には橋を壊してここも重要な防衛線となるのでしょうね。

中の御殿跡から湯殿跡を見ると石垣が積み上げられているのがわかります。

これが中の御殿の敷地です。
建物が無いので広くは感じないですが、もし建物が建っていたら結構大きな建物であろうとは思います。

ここは義景の実母の光徳院が居住した屋敷跡だそうです。

朝倉義景館跡

朝倉義景館跡を正面から見ています。
当時としてはかなり広い館だったのでしょう。
分譲住宅が何十軒も建ちそうですから。

唐門

朝倉義景館跡の廻りには土塁と堀が張り巡らされています。
先に見えるのが正門(西門)です。

それでは正面の門から中へ入ります。
これは唐門。

元々は松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたそうなので、左側には阿形の象の木鼻(木鼻とは呼べないような気もしますが)。

右側には吽形の象の木鼻(同じく木鼻とは呼べないような気もしますが)。

屋根の下側には朝倉家家紋が掛けてあります。

その反対側には豊臣家家紋。

元は伏見城にあった唐門を豊臣秀吉が朝倉家の菩提を弔うために寄進したそうです。
それで豊臣家の家紋も入っているのでしょう。

遠目に見ると古い門のようでしたが近くでじっくり見ると屋根の部分がかなり新しいんじゃないの?という感じです。

唐門の右側に植えられている木は桜の木だそうです。

朝倉義景館

土塁の内側です。
守備のための階段や隅櫓台が見られます。

朝倉義景館の説明看板。

朝倉義景館とその周辺の説明看板。

特別名勝一乗谷朝倉氏庭園の説明看板。

赤い半パンのジャージを着てひげを生やしたいかつい顔の人が墓所へと歩いて行き、墓の前で深々と頭を下げお参りをしていました。
人を見かけで判断してはいけないということです。

その五代(越前朝倉氏11代当主)義景の墓。

南門跡です。
建物の配置からするとこの門は一般の武士用の出入り口だったのではないでしょうか。

たぶん発掘調査で出てきたであろう館跡の礎石がたくさん並んでいます。

北側の土塁です。
気になったことがひとつ。
正面の土塁に上がる階段はまっすぐの階段だったのに、側面の南側と北側の階段は横向きについているのはなにか意味があるのでしょうか?

北門です。
この門は正門である西門の補助的な出入り口だったのでしょう。

高台から見下ろすと朝倉義景館がいかに大きかったかわかります。
手前側にあるのが国の特別名勝のひとつ、朝倉義景館の庭園の石組です。
まあ遺跡の庭園ですので、見かけではなくて当時を知る貴重な資料と見るべきなのでしょう。

朝倉義景館全体図も高台に設置してありました。
設置場所としては良い場所だと思います。
見比べやすいですからね。

復原町並み

遺跡から川の向こう側にあるのが復原した当時の町並み。

当時の街並みを忠実に再現しています。
(当時はどうだったかは実際には知りませんが)

復原町並みの見学には入場料が必要だそうです。
それもなんと210円。
無料にしてそのための受付の人件費を削減した方が安上がりなのではと思うのは私だけでしょうか。

上城戸・下城戸

上城戸

駐車場から少し南に進むと上城戸があります。
現在は土塁があるだけなので知らない人は何にも感じないで通り過ぎてしまう程度です。

下城戸

今度は北方向にずっと下りていくと道路の左手に土塁と食違虎口らしき場所が現われてきます。
駐車場がないので危ないとは思いながらも道路に止めて見に行きました。
出来れば数台分でいいので駐車場を作ってください。お願いします。

巨大な石が積み上げられています。

石垣の配置はまさしく食違虎口みたいです。
ここが北側の防衛線だったんですね。

敵はこちら側から進んで行き、側面からの矢で攻撃されるんですね。
出来ればもう少し直進側も左折側も距離があればよかったのではないでしょうか。
と、素人が勝手なことを言ってます。

下城戸の案内板。
あれれ、当時は長さ50m高さ5mあったんですね。
さらに枡形構造だったんですね。
失礼しました。

土塁の前には堀もあったみたいです。

この下城戸と上城戸に囲まれた内側の地域は城戸ノ内町と言います。

一乗谷城

一乗谷城は背後の一乗城山にあるらしいのですが、そこまでどのように行ったらよいのか案内などは一切見当たりません。
地元の人に聞いてみたら、「道がないので1時間ほど歩いて登らなければいけない」、「急斜面なので体力がないと無理だよ」、「何もないところだよ」等の暗に行かないほうがいいよとのお言葉。
城下の遺跡を巡るだけでかなりの時間を要し、このまま城まで登ると帰ってくる頃には暗くなってしまうので断念。

一度も戦闘に使用されることなく廃城となり、現在でも、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残り、各曲輪は堀切によって区切られている連郭式城郭だそうです。

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