徳島城周辺に到着し駐車場を探してぐるっと城を回って見つけたのが徳島中央公園東駐車場。
駐車場で車を降りて奥へ進んで行くと「あれっ!公園だ」。
そうなんですそこは親子連れが遊んでいる児童公園風の場所。
目の前には山があり平山城の徳島城なのでこの山の上だろうということは想像できましたが、いったいどこから行けばよいのだろう?
山の右手沿いに進んで行くとテニスコートが現われたので、引き返してみたものの左手側はずっと公園。
と、そこへ一人の男性が現われ山道を登っていくのが見えました。
それがこの「とこどっこい坂」。
とにかく登ってみます。
なんとなくイメージ的にはそれっぽい道。
石垣が見えてきました。
間違いなく城跡のようです。
喜び勇んで一気に突き進んでいくと危ないですよ。
まっすぐの先はすぐに崖下です。
一団で突進していくと先頭集団は後ろから押されて崖下に転落です。
ここは落ち着いてすぐ左の階段を進みます。
ここは本丸北門。
門を入ってさらに左へ曲がるとそこが本丸。
本丸跡に到達しました。
現在は何にもない平地ですが十分な広さはあります。
本丸にある弓櫓跡。
下をのぞいてみると本丸に至る西からの道が見えます。
どうやら今登ってきた道は裏道だったみたいです。
西側から本丸に突入しようとやってくる敵を上から弓矢で攻撃します。
弓櫓跡近くにある水鉢。
カタツムリの殻に水が溜まっているような感じの置物?
ちょっと可愛かったので誰かに見せたくて。
本丸の一角には清玄坊神社。
といっても石祠とその台座だけですが、そばにあった案内板には
清玄坊の元祖は清和天皇で,皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜わり,後に修験者となり三好家とともに,阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国,築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが,清玄坊だけは頑としてこれに応じなかったことから,公は一計を編み換地を与えるといって城下に連れ出し,紙屋町を通行中後から弓で射て謀殺した。
途端に蜂須賀家に変事が続出したので,公は清玄坊の祟に違いないと,前非を悔いて石碑をたて,末代まで供養することを誓ったところ,この変事はピタリと止ったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。
清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし,父の菩提を弔うため,刻んだ石地蔵が霊験あらたかで,現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。
次男右京院,三男左京院は難を逃れて,阿波郡の東西善地に落ち着き,祈祷の傍ら農業をしながら酒巻家として今日に至っている。
その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の創始者であり初代校長でもある。
又真珠湾攻撃で魚雷不発のため,九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫である。
ということでたたりが怖いので真正面からアップで撮るのは避けてみました。
この徳島城は本丸にあった天守は取り壊され東二の丸に代用の御三階櫓が構えられたということです。
その東二の丸へ続く本丸東門跡から見た階段。
現在ではその御三階櫓も全く存在しておらずさら地とのことでした。
西二の丸への階段を降りていきます。
本丸西門跡です。
正面向こう側の西二の丸から来てここで右に折れるわけですが、敵は左上にある弓櫓より側面から攻撃を受けます。
本丸西門より本丸内への階段です。
敵はさらにここで両側より攻撃を受けます。
積み上げは雑な感じがしますがなかなか立派な石垣です。
西二の丸跡。
本当に跡です。
遺構らしきものは何もありません。
西二の丸に攻め入ってくる敵を迎え撃つための帳櫓跡。
西二の丸への通路。
手前左側が帳櫓跡、奥側が西二の丸です。
典型的な喰い違いとなっています。
西三の丸跡。
残念ながら現在は配水池となっていて立ち入り禁止。
西三の丸門です。
西三の丸門から西坂口へ降りる階段です。
階段を降りて上側を見てみました。
かなりの段数の階段です。
本来ならば裏口であろう北側から登ってきて正解だったかもしれません。
登りの階段は老体にはかなりの負担ですから。
西坂口そばにはなぜかテンダー式蒸気機関車の展示がしてあります。
城との関係ではなくすぐそばのJR徳島駅となにか関係があるのでしょうか。
南麓曲輪を山に沿って西から東へ移動しています。
右の塀の向こうは徳島城博物館。
正面側には数寄屋門。
左側へ行くとバラ園などがあります。
数寄屋橋。
城の鬼門(北東)にあたる数寄屋門、不明門ともいわれ凶事の際以外は開けられることのない門で、そこにかかっていたのが数寄屋橋で太鼓橋だったそうです。
南麓曲輪の水堀を数寄屋橋から南側に見てみました。
この先右側の方に大手門があります。
南麓曲輪の北東部です。
左隅に見えるのが数寄屋橋。
正面の石垣の上には隅櫓が建っていたのでしょう。
内側から見た数寄屋門横の旗櫓跡。
なんと城山の麓に縄文時代の貝塚があります。
城山は昔は島で周りは海だったそうですから。
城山の岩肌に残る海蝕痕。
昔は海だったことの証拠ですね。
城の北を流れる天然の堀だった助任川。
城があった時代には南にも寺島川が流れその流れが西までを包み、いかにも自然の地形を利用した縄張りを見ることが出来たのでしょうが、現在は埋め立てられてJR線となっています。
今回は逆の経路で進んでしまったために、本丸へ至るまでのワクワク感がなく、残念でした。
皆さんは間違えないようにお願いします。