UA-79192611-1 本丸の建造物が唯一完全に残る高知城

本丸の建造物が唯一完全に残る高知城

高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城で、山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていました。

元々は南北朝時代に大高坂城が建っており、長宗我部元親の築城を経て、関ヶ原の戦功により遠州掛川から土佐に入封した山内一豊によって現在の高知城となりました。

築城は山内一豊に築城総奉行として乞われた、当時は築城の(特に石垣普請の)名手として知られた百々綱家によるものでありました。

明治維新後に、二の丸、三の丸の建造物は破壊され、本丸と追手門のみを残し、現在は県立高知公園となっています。

それでは高知城の東側、高知公園駐車場に車を止め、追手門に向かいます。

追手門

これが追手門で高知城の大手になり、門前は門と塀で囲まれた桝形状になっています。

追手門の向こうには天守が見えますが、天守と大手門が共に現存している城は珍しく、高知城・弘前城・丸亀城だけで、その中でも大手門から天守を見ることが出来るのは高知城のみです。

これが追手門から見える天守。

門の入り口の側面と対面は矢狭間塀になっていて、門前に攻め入った敵を門上のみならず側面と後方も含め3方向から攻撃できるようになっています。
ちょうど隅にある大きな石が鏡石(かな?)。

石垣の上に渡り櫓を載せた櫓門。屋根は入母屋造の本瓦葺きです。

門扉の上部には石落としも設けられていて、敵の直上から石を落としたり槍を突くことも出来るようになっています。

追手門を入ってすぐのところに、自由民権運動の父とされ、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で有名な土佐の英雄、板垣退助の銅像が立っています。
この名言は岐阜県で刺客に襲撃された時に板垣退助が発したと言われる言葉ですが、この時は一命を取りとめ、その後15年ほど政界で活躍しました。

杉の段から鉄門を通り三の丸へ

杉の段への石段

板垣退助像の左側の石段を登っていきます。

杉の段手前の石段の左手の石垣から異様なほど突き出している大きな石樋を見ることが出来ます。

高知は雨の多い土地柄であり、城内には多くの水路が設けられ、石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護しています。
城内で16ヶ所が確認され、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が一番大きく作られています。

この石段を登り切ったところが杉の段になります。
石段は登りにくく下りやすいように幅が工夫されているそうです。

杉の段

石段を登り詰め、杉の段に至ると右側に山内一豊の妻像。

功名が辻で有名な、夫(一豊)に馬を買わせるために大金を差し出した逸話などが残る千代の像です。
隣の馬はその時買った名馬でしょうか。

杉の段は井戸の段とも呼ばれ、城内に14ヶ所あった井戸の中でも一番良質な飲料水が汲める井戸がここにあり、この井戸の水を城主の住む二の丸御殿まで運んでいたそうです。

また藩主のお国入りや出駕の時には、一族がここまで送迎に出向いていたそうです。

三の丸石垣

目の前は三の丸の石垣。

城内の各所でカギ状に曲がる石垣は横矢掛りといい、死角をなくしてどこからでも弓矢を敵に浴びせられるようにするための仕掛けです。

石垣は百々綱家と同郷の近江の技術集団・穴太衆(あのうしゅう)によるものであり、雨の多い土地柄を考慮し、崩れにくく排水能力も高い野面積が多く採用されています。

杉の段より三の丸の石垣沿いにさらに進んでいきます。
石垣の向こう側が杉の段。手前左側を登ると鉄門。

杉の段からの天守

杉の段から鉄門に向かっている途中で前方上側を見上げれば、二つの犬走りが設けられた三段の石垣の上に天守が見えます。

杉の段から見える天守です。

鉄門

杉の段から石段を右手に上ると鉄門跡に至ります。
内側は枡形構造になっていて重要な防衛ポイントでした。

堅牢な打込み接ぎ(うちこみはぎ)という手法で築かれた石垣。
この左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていて、門の扉には多くの鉄板が全体に打ち付けられていたので、鉄門と呼ばれていたそうです。

鉄門を通過すると枡形の正面と右は矢狭間塀になっていて、門内に進入した敵を三方向から攻撃でき、また左に曲がって石段を上ると、矢狭間塀のため、右側の二の丸方面への道は見えず、左手に本丸と天守があり、真正面に数段の石段超しに見えてくるのがこの詰門なので自然と敵がここに誘導されるようになっています。

詰門

この詰門は本丸とその北側にある二の丸の間に設けられた空濠にかけられた櫓門で、二階は二の丸と本丸を結ぶ廊下橋となっていますが、一階部分は東側の入り口から入ると本丸西側の獅子の段に抜けるように作られており、本丸につながっていません。

さらにはこの詰門の入口は右側に出口は中央にと筋違いに設置されていて敵がまっすぐに通り抜けられない構造となっています。

したがって鉄門が突破されて大勢の敵が詰門に押し寄せても、詰門で兵の流れが滞り、後方からは兵がどんどん押し寄せるため、門前で立ち往生となった敵は三方向からの弓矢や鉄砲の集中攻撃を受けてなすすべもなくなるのです。

三の丸

鉄門から出て右手前の曲輪は高知城で一番広い平面であり、かっては大書院と呼ばれる広大な建物が建っていて年中行事や儀式などで大勢の藩士が参集するときに使われていたそうです。

三の丸を東方向に進み、石垣の端から見下ろすと杉の段がよく見えます。
当時は杉の大木が多数あったのがその名前の由来だそうです。

この三の丸で発見された水路と石樋は、いつでも見られるようになっています。

上の水路の先の石樋です。

三の丸からの天守

三の丸から本丸方向。

三の丸から見える天守。

二の丸から詰門を通り本丸へ

二の丸

鉄門から出て右手にあり、三の丸の西側8m高い場所にある二の丸は藩主の政務及び居住空間である二の丸御殿がありました。

二の丸入口付近から見た天守。
右側は東多聞櫓になります。

天守には石落としや忍び返しの鉄剣が設けられており、これを突破して天守に取り付くのは至難の技となっています。
この忍び返しは全国唯一現存するものだそうです。

二の丸から見た詰門とその奥の左側の天守。
まだ開館時間ではないので入口は閉まっていて本丸へは入れません。
しばらく周辺を散策します。

二の丸奥から見た詰門とその先の廊下橋門櫓。

詰門

8:30に詰門2階(廊下橋)の入り口が開いたので本丸へ向かいます。

懐徳館とは本丸御殿のことであり、全国で唯一完全な形で残っている本丸御殿だそうです。

詰門2階は二の丸から本丸への通路であり、藩政時代には橋廊下と呼ばれたが、このような構造になっており、左側は鉄門から侵入してきた敵を攻撃するために、右側は家老・中老などの詰所として用いられたので、現在の呼称になったそうです。

園児たちの散歩かな?
みんな元気に階段を登っていきます。
保母さん(今は保育士と呼ばなければならないのかな?)たちは少し疲れ気味。

二の丸側と本丸側は高低差があり、詰門2階から本丸へは一気に駆け抜けることが出来ません。

本丸

本丸の廊下橋門櫓。
下の方が詰門2階の出口です。

本丸警護の武士の番所だった西多聞櫓。

天守

それでは天守に向かいます。
手前が懐徳館(本丸御殿)でここから入ります。

後方の独立式望楼型外観4重6階、1重目の屋根を腰庇として内部3層6階の天守は、大入母屋とその上の唐破風、黒漆で塗られた高欄で、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれています。

丸三葉柏紋(まるにみつばかしわもん)。
山内家には複数の家紋が存在しますが、これが本紋です。
土佐藩を母体とした九十九商会や後の三菱商会のスリーダイヤはこの家紋に由来するそうです。

現存天守でしか味わえないこの景色。
私の一番好きな急こう配で幅が狭く頭がぶつかりそうな階段です。

上の階から二段下の敵を攻撃出来るように配置されています。

最上階に到達したのですが何やら看板が・・・。
落書き・喫煙・飲食はわかりますが、昼寝・・・。
こんな人の出入りの激しいところで昼寝が出来るなんて逆にその図太さは尊敬に値するのではないでしょうか。

天守からの景色

天守最上階からの眺めです。

正面が杉の段から鉄門に至る通路で、左側が三の丸です。

右側の広場が三の丸。
左側に二の丸と二の丸に至る石段。

奥の広場が二の丸。
二の丸から詰門を通過して廊下門、廊下門の右側に東多聞櫓、廊下門の左側に西多聞櫓が半分ほど見えます。

右が西多聞櫓、正面が黒鉄門、左が納戸蔵。

高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られています。

追手門の2つの鯱は瓦だが、天守の4つの鯱は青銅製。

黒門から獅子の段(梅の段)へ

本丸の南に位置し、通常は閉じられていて、儀式の際に藩主が出入りするための門だったそうです。
この写真は天守から出て本丸内から見ています。

黒鉄門に至る手前には矢狭間塀。

太鼓櫓跡から黒鉄門方向へ向かう通路です。

太鼓櫓跡から獅子の段へと下っていく道。
獅子の段側から太鼓櫓跡に向かって撮っています。

納戸蔵の屋根が見えます。

黒鉄門も見えます。

獅子の段から本丸を見上げると、堂々とそびえる石垣の上には黒鉄門が見え、その右側には矢狭間塀、左側にもまた矢狭間塀。
石垣手前は(というか私が立っている所を含め)梅林であり、2月中旬から3月上旬の見ごろの時期にはきれいな梅の花があたり一面に咲き誇るそうです。

二の丸乾門跡を降りたあたりで搦手側から大手側を見た右側が獅子の段になります。
当時は射場や馬場があったが、現在は高知城公園の開園を記念して梅林となっているので、梅の段と呼ばれています。
左手前が二の丸の石垣、その先に本丸の黒鉄門が見えます。
鉄門を突破して本丸に突入しようと誤って詰門一階の入り口から侵入した敵兵はこの獅子の段に出てしまい、「ここはどこだ?」としばし途方に暮れるであろう場所です。

その他

この他にも山内一豊の像があるそうなのですが、パンフレットには板垣退助像と山内一豊の妻像は記載されていましたが、主役の山内一豊像は記載されていなかったため、私は見てはおりません。
夫よりも妻のほうが一般の人には有名だからでしょうか。

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