UA-79192611-1 種子島の南端にある鉄砲伝来の地、門倉岬

種子島の南端にある鉄砲伝来の地、門倉岬

種子島の最南端の門倉岬に来ました。

あたりにはガジュマルの木が茂っています。
(多分ガジュマルの木でありアコウの木ではないと思います。)
私にはどちらの木なのか、はっきりと判別する知識は持ち合わせていませんので間違っていたらごめんなさい。

写真撮ってるときはヤシの木だと思っていたんだけど、どうですかね・・・?。
よくわかりません。

門倉岬公園の先端には南蛮船の形を摸した展望所があります。
昔の南蛮船はこんな形をしていたのかどうかは知りませんが、少なくとも、こんな狭い船ではなかったでしょう。

断崖絶壁から見下ろした景色です。
今日は曇っているので遠くはよく見えませんが、もし晴れていればお薦めの絶景撮影スポットだそうです。
東側(太平洋側)には宇宙センターの竹崎展望台まで続く海岸線が綺麗で、西側(東シナ海側)には屋久島が見えるそうです。
今は東の海岸線も見えず、西の屋久島も全く見えないので残念ながら写真はありません。

鳥居の横には種子島門倉岬の文字と鉄砲を構えている人の銅像があります。
この門倉岬には御崎神社があり、鳥居はその神社のものです。

祭神は大国主命と少彦名神で、大国主命は大黒様として、また出雲の縁結びの神として知られる等、その御仁徳は広範囲にわたるが、諸国を巡って民生の安定に意を注がれ、たまたまこの地に足を留め、御座所を中西目中園に置かれたという。少彦名命を遺し、産業の開発・民生の安定にあたらせた。現存する大宮田・小宮田は両大神が開田され、稲作を指導されたところという。少彦名命は医師の神としても知られるところで、両大神の御恩恵は大きく、住民はその恵沢に浴したので、永くこの地に祭ってその御仁徳を慕うものである。
と、鹿児島神社庁はその由緒について述べられています。

岬の形状が動物の尻尾を思わせることから、昔は島尾大明神と呼ばれ、この地を開いた脇門氏の祖先が、畑のなかにあった石を祭ったのが始まりといわれています。

鐵砲傳来紀功碑。
種子島守時の題字です。
種子島守時とは明治時代の男爵で、種子島を治めていた種子島氏の27代目だそうです。
ちなみにこの種子島氏は鎌倉時代からこの島を支配していたそうです。

鉄砲伝来の地、門倉岬の礎があります。
教科書に載っていたので種子島が鉄砲伝来の地であることはみなさんご存じですね。
それがこの場所なんです。

ポルトガル海軍の記念碑がありました。
この地に漂着した南蛮船の鉄砲を持ったポルトガル人って海軍の人だったんでしょうか。

1543年(天文12年)8月25日に、台風により漂着した南蛮船(明国船)に乗っていたポルトガル人商人によって日本において初めて鉄砲が伝えられた場所とのことです。
ここが織田信長以降の戦国時代に大きく影響を与えた地なんですね。

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ひとやすみレクタングル大18.02.19
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